菅豊彦「道徳的実在論の擁護」
を読んだ。日本語の本を読んだのはなんか久しぶり。著者はマッキーやブラックバーンの反実在論(後者は厳密には準実在論であるが、一応反実在論でくくる)を科学主義だとして批判して、自然言語によって開かれる「理由の空間」にある道徳的価値も実在すると主張する。近代科学の世界観では「数学の言葉で書かれている」第一性質しか実在の身分を認められないが、その世界観は偏狭すぎるのであって、「厚い」価値概念(cruelといった、事実的内容とともに価値評価を示している語)に見られるように事実と価値を相互に独立に二分することはできない。
著者の議論は道徳的実在論を確立していくというpositiveな議論というよりも、反実在論への批判を通してなされているのだが、細かい論点を一つ一つ批判していくというよりも、プログラム全体に関わる批判をしているので、著者の議論に対してありそうな批判をあんまりケアしてくれていない。
たとえば、第6章ではフランクフルトに従って「自由な意志(に基づく)」行為をする人はたとえdeterminismが正しくても自分の行為に対して責任を持ちうると論じられている。ここでの例は部屋に閉じこめられた人が脱出しようと試みる場合。著者はその人物はdeterminismが正しいなら、選択の自由(意志の自由)はもっていないが、彼・彼女の行為は自由な意志に基づいていると論じる。
しかし、よくわからないのはほんとうに選択の自由抜きで責任を考えられるかということ。つまりたとえ、著者の考える「ある時点」においてはすでに選択がされているゆえに意志の自由は存在しないとしても、それはあくまで選択の結果であり、「その時点」以前の彼を考えれば、やはり選択の自由と責任はリンクしているという反論があるかもしれない。もし「その時点」以前にも彼に選択の自由がないのならば、彼は一つしかない自分の欲求に従うことを意志することになる。これが「責任」概念の前提となる二階の欲求なのだろうか。
これがうまくいっているかどうかは全然わからないが、少なくともすぐ思いつきそうな反論ではある。しかし著者は素通りなので読んでいてちょっとつらいものがある。
とはいえ、この本は結構マクダウェルに基づいているので、マクダウェルの議論を知りたい人には有用かもしれない。
著者の議論は道徳的実在論を確立していくというpositiveな議論というよりも、反実在論への批判を通してなされているのだが、細かい論点を一つ一つ批判していくというよりも、プログラム全体に関わる批判をしているので、著者の議論に対してありそうな批判をあんまりケアしてくれていない。
たとえば、第6章ではフランクフルトに従って「自由な意志(に基づく)」行為をする人はたとえdeterminismが正しくても自分の行為に対して責任を持ちうると論じられている。ここでの例は部屋に閉じこめられた人が脱出しようと試みる場合。著者はその人物はdeterminismが正しいなら、選択の自由(意志の自由)はもっていないが、彼・彼女の行為は自由な意志に基づいていると論じる。
したがって、著者によると彼には自分の行為の責任があり、選択の自由がなくても自分の行為の責任を負うことになる。たとえば、部屋に閉じこめられた人物が、結果として成功しないとしても、脱出したいという欲求を自己の意志として行為を試みる場合、それは「自由な意志」から行為しているのであり[...]。
脱出しようという「自由な意志」が成立する場合、この「自由な意志」の内容とは逆の意志[...]はその時点の彼には開かれておらず、従って彼には「意志の自由」(選択の自由)は存在しないかもしれない[...]。(p.168-9)
しかし、よくわからないのはほんとうに選択の自由抜きで責任を考えられるかということ。つまりたとえ、著者の考える「ある時点」においてはすでに選択がされているゆえに意志の自由は存在しないとしても、それはあくまで選択の結果であり、「その時点」以前の彼を考えれば、やはり選択の自由と責任はリンクしているという反論があるかもしれない。もし「その時点」以前にも彼に選択の自由がないのならば、彼は一つしかない自分の欲求に従うことを意志することになる。これが「責任」概念の前提となる二階の欲求なのだろうか。
これがうまくいっているかどうかは全然わからないが、少なくともすぐ思いつきそうな反論ではある。しかし著者は素通りなので読んでいてちょっとつらいものがある。
とはいえ、この本は結構マクダウェルに基づいているので、マクダウェルの議論を知りたい人には有用かもしれない。
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