Thursday, December 22, 2005

LaPorteと哲学者のゲーム

Kripkeについてペーパーを書く途中で、Joseph LaPorteの本を読んだ(1-3章だけだが)。読んでいて気付いたのは、この人は哲学者のときどきやる推論ゲーム(aka「なにがでるかな」ゲーム)をやっているなということだった。「何がでるかな」ゲームというのは、適当に前提をおいて、何が結論として出てくるかを推論するというゲームだ。つまりP1, P2,...Pnという前提からC1,C2,...,Cnを推論するゲーム。LaPorteの場合だと、Kripkeの本質主義+de Queirozのクレードの定義+分岐学が前提で、結論は諸々の本質や様相に関する言明(1-3章の範囲では)。

しかしそれはどの学問でも同じではないか? ところがこのゲームをやる場合、推論する人はPにもCにもコミットしない(というと大げさだが、Pが正しいかどうかに余り関心を示さない)。つまり、「Pならば C」にはコミットするが、Pには大げさにいうとコミットしない、従ってCにもコミットしないわけだ。そこで哲学者のやることは、これだけの前提から、どう いうことが推論されるかをしめすこと(なにがでるかな?をみること)。

LaPorteが自分の前提の正しさを示すことにそれほど関心を持っていなさそうなことは、いくつかの点からうかがえる。たとえばLaPorteはde Queirozの定義(というか、クレードが定義できるかどうか)が正しいかどうかに余り関心を示さず、素直に受け入れているし、リドリーの「分岐=種の絶滅」というかなりcontroversialなテーゼをほとんど天下り的に「分岐学者がこういっているから」といわんばかりに採用している(だいたいすべての分岐学者がこれを受け入れているとも思えない)。また種の個 物説とkind説に対立に至ってはきわめてartificialな方法で切り抜けている。したがってLaPorteは前提を一つ一つ論証していくことでは なく、この前提から何がでてくるかということを力説したいのではないか。

もうひとつのポイントはLaPorteは自説の正しさを argueするにあたって、IBE(最善の説明への推論)をつかっていないような感じであること。これはKripkeとはだいぶ違う。Kripkeは proper namesについては自分の説明の方が(descriptivistより)よい説明だと主張しているし、natural kindsについてもたぶんそうだろう(compared to the new phil of science)。しかしLaPorteは推論の正しさは主張するが、我々のbiological taxaに対するideaをよりよく説明するのだ、という感じではない。

だから分岐学者がこれを読むと自分が命をかけて主張したいことがぬるい議論であまされているのをみて「ちょっとJoseph、放課後体育館の裏へ来い」的な気分になるのもわからなくもない(またLaPorteはnatural kindの定義などかなりcontroversialなことをいって、予想される反論に応えないという結構萎えることもやっているし)。ただ自戒を込めていうと、哲学者は時々自分が遊びたいだけのために人の畑をつかうことがあるので、他分野の人は結構注意が必要だと思う。

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